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京丹後に佇む社
由緒
当社は住古日留居(ひるこ)大明神と唱え、四神ヶ嶽に奉斎されておりましたが、鎌倉時代の建歴(けんりゃく)年間(1211~1213)、勅定(ちくじょう)により、将軍・右大臣源実朝公が、現在の地に移転したといわれています。「玉葉集」に鎌倉右大臣の歌があります。
『神風や 朝日の宮の宮移し 影長閑(かげのどか)なる代に有けれ』
朝日の宮は即ち当社のことで、当時の造営が成り遷宮の有様を詠んだものであります。後年社殿の炎上によって大永二年(1522)壬年(みずのえとし)八月十八日再造営がなされた事は、丹後旧事記其の他の記録により明らかであります。
幕政時代、湊宮に船見番所がありましたが、享保二年代官飯塚孫二郎の代に船見番所を改めて陣屋が置かれました。其の当時、代官の崇敬があった様で、御剣一口の奉納の記録があります。日留居大明神は延喜式の所載(第六十代醍醐天皇の時代 八九七~九二九に編修された神社明細帳)の村岡神社との説があります。日留居は蛭児であることから後年社名を蛭児神社と称するようになりました。
明治四十三年拝殿を改築し、玉垣・石垣をも改修、其の他の設備も加えて、摂社大川・日御碕神社の整備も整い境内の面目も一新した。境内社稲荷神社は元稲荷山にあり、小泉市太夫代官の奉祀崇敬する社で、明治維新の際、現地に移転しました。
さらに、平成二十一年六月御本殿廻りの玉垣を僅か取り除き改修、其の他狛犬、灯籠の移設をも施しました。正面のみ石垣を新調し周囲は旧石垣を積み直し、境内西北程にも四神ヶ嶽山頂に向かい蛭児神社御鎮座の跡の遥拝所を造営し鳥居を建立しました。

御祭神
天津日高彦穂々出見尊
(あまつひこひこほほでみのみこと)
木花之佐久夜毘売から生まれた三柱の神の第三。木花之佐久夜毘売が火をつけた殿に入り、火の盛んに燃える時に産まれた。